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【青函ツインシティ★スペシャル】『縄文浪漫(第三弾)』青森大学・櫛引教授ご寄稿
2021.07.27、悲願であった北海道・北東北の縄文遺跡群が世界文化遺産登録となり、各地元は歓喜に包まれました。あれから1年、各地(北海道・青森県・岩手県・秋田県)に於いて記念ツアーやイベントが開催され、大変な盛り上がりを見せております。
さて、この度の青函ツインシティスペシャルは、縄文遺跡群の世界遺産登録一周年を記念しまして、青森大学・櫛引教授より待望の第三弾となる『縄文遺跡群と新幹線、津軽海峡のつながり』をご執筆賜りました。
ご寄稿文には、三内丸山遺跡は危機だった!?北海道・北東北の縄文遺跡群の誕生秘話!?大変読み応えある縄文浪漫たっぷりの内容でございます。ぜひぜひ、お読みいただき、縄文・新幹線・フェリー、津軽海峡のつながりをご堪能下さいませ。
※青函ツインシティとは
【縄文遺跡群と新幹線、津軽海峡のつながり】
1)はじめに 「北海道・北東北の縄文遺跡群」は2021年7月、世界文化遺産に登録されました。それから1年余り、 今年は各地で記念のフォーラムやイベントが開催されました。世界遺産登録はあくまでもゴールでな くスタート。 ここからどんな未来図を描けるかが最も大きな課題です。今回は登録1周年に寄せて、三内丸山遺跡 や縄文遺跡群と、私の主な研究テーマである「新幹線」との意外なつながり、見えてきたフェリー 航路の可能性、そして北海道・青森・岩手・秋田の4道県や津軽海峡交流圏の「これまでとこれから」 に 焦点を当ててみます。 2)新青森駅ホームからの光景 東北新幹線・新青森駅のホームから南側を見渡してみましょう。 三内丸山架道橋(左手)と新青森駅(右手奥)。 後方に陸奥湾が広がる=筆者撮影 線路沿い遠くに何本かの塔が見えます。これは三内丸山遺跡に隣接する「三内丸山架道橋」の主塔で、 遺跡からの景観に配慮して高さを抑えてあるそうです。ちなみに、橋脚の間隔が150mと、新幹線の橋の 中で最も長いのが特徴の一つといいます。 さらに、主塔の手前のレールが微妙に曲がっていることに気づかされます。これは「三内丸山遺跡を 守ったカーブ」です。 三内丸山遺跡の存在は、「遺跡」という言葉がない江戸時代から知られていました。私が子どものこ ろ、「三内の山」は「土器が拾えるところ」として人気を博していました。 その遺跡で本格的な調査が始まったのは、今からちょうど30年前の1992年でした。遺跡の上に青森県 営野球場が建設されることになり、破壊される遺跡を記録に残すための調査でした。 しかし、その後、クリの巨木を使った「6本柱」や多数の土器片を積み上げた盛り土、ヒスイの大珠と いった、貴重な遺構・遺物が多数出土したため、1994年、遺跡が保存されることになりました。 北海道から津軽海峡を渡って運ばれた黒曜石の石器も数多く見つかっています。 それから4年後の1998年、東北新幹線・八戸-新青森間の工事が始まりました。 実は1982年、三内丸山遺跡を通るルート案が決まっていたのですが、当時は話題に上りませんでした。 しかし、上記のような経緯で遺跡の保存が決まり、しかも1997年には史跡指定を受けていたため、そ のままという訳にはいきません。着工に先立ち、工事に携わる鉄道・運輸機構は遺跡を迂回するルート を設定し直しました。 地図でみると、東北新幹線が終点・新青森駅の手前で遺跡を避け、大きく西側へ膨らんでいる様子が よく分かります。 三内丸山遺跡から新青森駅にかけての地図 地理院地図) 3)東北新幹線の曲折 さて、その東北新幹線の建設は1970年代から90年代にかけて、青森県が抱えていた最大の政策課題 の一つでした。単純には比較できませんが、青森県にとっての重みは「北海道・北東北の縄文遺跡群」 の世界遺産登録に匹敵する、といってもよいかもしれません。 かつて東京以北の大動脈だった東北本線は、上野-青森間がひと続きの存在でした。 しかし、東北新幹線は計画段階で「盛岡以南」と「盛岡以北」に分かれてしまいました。 盛岡以南は1971年、建設に必要な「基本計画」と「整備計画」がともに決まり、同年中に着工しま した。 しかし、盛岡以北は基本計画決定が1972年、整備計画決定が1973年とやや遅れました。 そして、この遅れが結果的に、20年以上の開業の遅れをもたらしました。 当時の国鉄は1974年、青森市に造る新幹線駅の位置について、在来線の青森駅併設、現在の新青森 駅、同じく現在の青い森セントラルパークの3候補を示しました。地元が青森駅併設を強く求めたのに 対し、国鉄は新青森駅案を推し、最終的に現在地で決着したのは6年後の1980年のことでした。 この間、1973年のオイルショックや国鉄の経営難のため、盛岡以北は着工のめどが立ちませんでし た。盛岡以南は1982年6月23日、盛岡開業を迎えましたが、皮肉にも同年、盛岡以北を含む「整備新 幹線」各路線は建設凍結が閣議決定されました。 その後、盛岡以北は建設凍結解除、ミニ新幹線の導入と撤回、八戸での部分開業決定などを経て、 前述のように1998年、新青森駅延伸が決まります。2002年12月1日には、東北新幹線がついに岩手・ 青森県境を越えて八戸駅に到達し、2010年12月4日、ようやく全線開通を迎えました。 4)東北新幹線と三内丸山遺跡の関わり 数千年の眠りから破壊されるために目覚め、一転して保存、さらに世界遺産となった三内丸山遺跡。 そして、40年近い年月をかけて新青森駅にたどり着いた東北新幹線。青森県や県民の強い思いがこ もった両者が遠くない距離に位置していることに、ある種の因縁を感じます。 そして実際に、この両者の足跡は交わっています。 三内丸山遺跡は保存決定時、展示施設や見学者向けの施設がありませんでした。1995年から徐々に 整備が進み、念願のビジターセンター「縄文時遊館」がオープンしたのは2002年11月30日、つまり東北 新幹線・八戸開業の前日でした。施設整備の目標を新幹線開業に設定したのです。 その後、青森県は2005年、世界遺産登録推進に乗り出し、遺跡の展示・収蔵スペースを充実させる方 針を打ち出しました。 完成時期は、今度は2010年12月の東北新幹線全線開通・新青森開業に合わせて設定されました。 そして開業に先立つ同年7月、新スペース「さんまるミュージアム」がオープンしました。詳しくは 記しませんが、この間のさまざまな検討作業も、常に「2010年の新幹線開業」を視野に進められていま した。 5)4道県の枠組みと新幹線 東北新幹線と三内丸山遺跡のひと回り外側には、さらに北海道新幹線と「北海道・北東北の縄文遺跡 群」のつながりが広がっています。 三内丸山遺跡(下部全体)と三内丸山架道橋 =筆者撮影 三内丸山遺跡が史跡に指定された1997年、青森・岩手・秋田の3県は「北東北知事サミット」を初め て開催しました。自然環境や歴史、文化が似通う3県が連携し、共同で事業を展開したり提言を行った りする、全国でも珍しい取り組みです。ひところは「ミニ道州制」の導入を検討し、話題を呼びました。 2001年の第5回からは北海道が加わり、「北海道・北東北知事サミット」に発展しました。 「北海道・北東北の縄文遺跡群」を構成する4道県の枠組みが、21世紀初めの年に出来上がっていた訳 です。 縄文遺跡群の世界遺産登録を実現する上で、4道県の連携の存在は大きな意義を持っていたようです。 「北海道と北東北の縄文遺跡群」という構想自体が、4道県の連携の上にうまく載る性格・構造を帯び ていたと言えるかもしれません。そして、過去における4道県のつながりのひとこまに、新幹線が現れま す。 青森県は東北新幹線・盛岡以北の早期開業に向けて、岩手県、さらに北海道と連携していました。 特に、財政上の理由から「ミニ新幹線規格」導入がいったん決まった後は、通常の「フル規格新幹線」 の復活を求める運動を展開しました。その必要性を訴える最大の根拠は、北海道まで新幹線を高速で通す ためでした。 新幹線が通れる規格の青函トンネルの工事が既に進んでおり、速度が劣るミニ新幹線では、青函トンネ ルの機能を発揮できない、と主張したのです。 最終的に、盛岡以北は全区間がフル規格新幹線に再び変更され、現在に至ります。北海道新幹線も、 フル規格で建設され、第一段階として2016年3月26日、新函館北斗駅まで到達しました。2031年春には札 幌延伸が控えています。 また、東北新幹線の歴史を振り返ると1970年代初め、盛岡以北のルートをめぐる議論がありました。 「盛岡-八戸-青森」の「東回り」か、「盛岡-大館-弘前-青森」の「西回り」か。 八戸市のある南部地方と、弘前市のある津軽地方が、それぞれ岩手県、秋田県と連携して誘致に名乗り を上げました。3年半にわたる検討を経て、現在のルートに落ち着いたのは1973年11月のことでした。 青森県は両ルートの間に入る立場でしたが、太平洋側、日本海側それぞれに、地域同士のつながりを感 じさせる出来事です。 4道県がまとまって、東北新幹線または北海道新幹線の建設促進を求める場面は実質的にありませんで した。 しかし、現在の4道県の枠組みができる過程で、新幹線をめぐる連携の場面があったことは、多くの意 義があると考えます。 6)北海道新幹線の開業と津軽海峡交流圏 津軽海峡を挟む交通網には1988年、まさに歴史的と言える変化が起きていました。 青函トンネルと津軽海峡線の開通、そして青函連絡船の終航です。 1954(昭和29)年の洞爺丸台風で多くの人が亡くなった出来事を契機として、戦前から構想のあった 青函トンネルが実現に動き出しました。また、1970年代を境に、北海道と本州の旅客・貨物輸送は青函 連絡船からフェリー航路と航空機へシフトしていきました。 青函連絡船が役割を終えた後、海峡の往来はフェリーと鉄道の競合時代に入ります。 旅客の面では鉄道が利便性に勝り、やがて「海峡を越える旅は鉄道」というイメージが定着しました。 また、「青函圏」という考え方が提唱され、海峡を越えた交流の重要性があらためて強調されました。 津軽海峡線の開通から28年、青森県は北海道新幹線の開業に際し、新たに「津軽海峡交流圏」という 考え方を打ち出しました。津軽海峡と、それを挟む道南地域と青森県のつながりを新たにデザインする 施策です。 「青函圏」はどちらかと言えば「青森市と函館市」、または「青森県と函館エリア」という陸地に視 点を置いた枠組みでした。津軽海峡交流圏は、「津軽海峡そのものを主人公にする」という視点を重ね 合わせた視点と言えます。フェリー航路と新幹線は競争相手ではなく、交流圏を構成する重要な、補完 し合う存在と位置づけられました。 そして、開業後の旅客の動きは、多くの人を驚かせました。「旅は鉄道」というイメージを覆して、 フェリーの利用者が増えたのです。最大の要因は、北海道新幹線の料金が在来線に比べて高いことでし た。各種の割引切符もなくなり、「いっそのこと、時間がかかってもフェリーで」と選択した人が少な くなかったのです。 もちろん、フェリーでの移動が本意ではない人も少なくなかったでしょう。しかし背景には、フェリ ーの運航会社が地道に、旅客の利便性や快適性を高める工夫を重ねてきた効果があったことは間違いあ りません。 中には、新青森駅と青森港のフェリー埠頭の距離が近いことに注目し、移動経路を工夫して、「片道 はフェリー、片道は新幹線」という旅を楽しんでいる人もいるといいます。 縄文時代に遡る北海道と本州・青森の交流は、北海道新幹線の開業に伴い、予想以上に多面的な旅を 生み出しています。 7)未来に向けて 縄文時代、1万年にわたって続いた北海道と北東北の文化的なつながりをなぞる形で、今、4道県のつ ながりが地域の将来像の探究に重要な役割を果たしています。歴史の妙と言えばよいのでしょうか。 4道県は教職員を相互に交換しているほか、ソウルに4道県の事務所を置いています(このほか、北東 北3県は名古屋、大阪、福岡に合同事務所を置いています)。そこへ新たに、最大のテーマとして、「 北海道・北東北の縄文遺跡群」の活用が加わった形に見えます。 さらに、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の活用と並行する形で、4道県の宿題になっているのが、 2031年春に控えた北海道新幹線・札幌延伸への対応です。 もちろん、現時点では、9年も後の延伸への関心が、北海道内でも高まっているとは言えません。 しかし、道内各地で新幹線工事が進み、札幌駅の改造も目に見える形で行われています。そして、 北海道新幹線を活用すれば、道央にあるキウス周堤墓群(千歳市)などの世界遺産の構成資産に、北東 北からも容易にアクセスできるようになります。 新幹線をめぐっては、並行在来線の廃止などネガティブな課題も存在します。 それでも、人口減少や高齢化に向き合いながら、新たな地域の形やつながりをデザインし直す上で、 活用法をどう考えるかは、とても重要だと考えます。フェリー航路の活用と組み合わせれば、津軽海峡 を今までとは別の形で行き来する人を増やせるかもしれません。 考えるほどに、さまざまなヒントがわいてくる「北海道・北東北の縄文遺跡群」と4道県、そして 北海道新幹線やフェリー航路の将来像。遺跡群や海を眺めながら、さまざまな思いをめぐらせてみませ んか? ★第三弾「縄文遺跡群と新幹線、津軽海峡のつながり」⇐PDF版(ダウンロード)はこちら ------------------------------------------------------------------------------------
【櫛引教授のこれまでのご執筆】
★第二弾「海峡を越えた繋がりの魅力」⇐PDF版(ダウンロード)
★第一弾「縄文ファンとして」⇐PDF版(ダウンロード)
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【関連リンク】
・櫛引教授インタビュー記事(福井新聞)
・北海道・北東北の縄文遺跡群
・三内丸山遺跡センター
・青森大学
・JAF青森支部